「いいだ丘の上」橋南地域は、飯田城跡が残る城下町で、多くの史跡がある町です。
橋南地区の色とりどりの歴史を紹介します。
◆飯田城と城下町
飯田城は中世、坂西氏によって築かれたと言われています。城は、天竜川の支流の松川と野底川に挟まれた河岸段丘の先端部分を利用して築かれた平山城です。
城下町は、飯田城を中心に西と北側に広がっています。下伊那郡を治めるうえでとても良い場所にあります。1596年には、城下の町屋を碁盤割に整備しました。
飯田城はほとんど残っていませんが、本丸跡は1880年に創建された長姫神社の境内となっています。二の丸跡には1921年から1982年まで飯田長姫高校があり、移転後、高校があった場所に飯田市美術館があります。
◆りんご並木
りんご並木は1947年(昭和22年)に発生した「飯田大火」の復興過程で、避難所となった飯田東中学校に着任された校長松島八郎先生が、北海道の街路樹やヨーロッパのりんご並木は美しく、そこでは落ちた実を取る者もいないと言う話をしました。 生徒たちはその話に感動し、市が予定していた計画に提案し「街も、そこに住む人の心も美しくしたい」という願いをこめて、りんごの苗木40本を植えたのがりんご並木の始まりです。
(写真提供:飯田東中学校)
りんご並木誕生以来、多くの人が関わっています。昭和30年初めてりんごの木に実が付きましたが、落果と盗難が相次ぎ収穫できたのは4個だけでした。りんごが盗まれたことが大きく新聞に報道された時、全国からたくさんの応援の声と手紙が届きました。その中でもりんごが好きな息子を戦争で亡くしてしまった有安勇さんは37年間多くの支援をしてくださいました。
◆大火と裏界線
1947年(昭和22年)4月20日に橋南にある一軒の民家で火災が発生しました。 当時の建物は木造で密集していた為、火の回りが早く次々と民家に移り市街地を四分の三焼く大火に至りました。
その大火の復興時に防火帯としての機能を兼ね備えた裏界線が造られました。裏界線は各自の土地を1mずつ使い幅2mで造られました。多くある裏界線を合わせると約5kmになります。
大火の際に辛うじて焼失を免れた建物は菱田春草の生誕地付近に残されています。また裏界線は現在、防火帯としての役割だけでなく趣のある場所になっていて、裏界線を使ってのイベントなども行われています。ぜひ参加してみてください。