いいだ丘の上 #お散歩 #橋南のお宝発見


◆水の手御門石垣[飯田市水の手町]

追手町小学校東側の、水の手通りへ抜ける急坂を少し下った左側に、大きな石で積み上げられた石垣がある。
天正18年毛利秀頼飯田城入部の頃は大手門、慶長6年小笠原秀政から搦手(からめて)門として使用された水の手御門跡の石垣である。
飯田城主堀氏は、徳川幕府派であったため、明治維新の後に、飯田城は徹底的に破壊された。建物は解体、石垣は崩され、堀は埋められてしまったため遺構は少なく、その中の一つで貴重な物である。
又、この巨石は尾科(飯田市龍江)の文吾(実際の人物)が、飯田城築城の時、一人で大きな石を運び積み上げてしまったとの伝説で知られている。(文:古川光亮)


◆観耕亭碑[飯田市追手町2丁目641]

 長姫神社にある、飯田藩主を称える碑を久しぶりに訪ねてみました。
 長姫神社(旧飯田城の本丸)は天竜川・松川・伊那山脈・近郊の町や村が一望できる場所にあり、境内にある高さ105センチメートル幅39センチメートルの碑には「時の藩主堀親義候は文武の勉強に志し政(まつりごと)に励み、折を見ては城外に出て山水を鑑賞することを楽しみとしていた名君である。しかし、外出すると働いている農民の邪魔になる。そこで城内に小亭(あずまや)を作り、そこから農民が農耕に励む様子を眺め楽しんだ。賢者の楽というべく、まさに仁政(民衆に思いやりのある政治)の基とすべきである」という意味が描かれています。
*篆額は安藤龍淵(あんどうりゅうえん)「名は正宜」幕末明治の幕臣、書家の筆・特に隷書に優れ、古美術 鑑賞にも才覚を現した。
*碑文は安積艮斎(あさかごんさい)「名は重信」江戸時代後期の儒学者の作
・ペリー来航時のアメリカ国書の翻訳やロシア国書の返書の起草に携わった。
*書は高橋石斎(たかはしせきさい)「名は豊珪(ほうけい)」幕明治の書家の書・尾張名古屋藩の撃剣師範だったが、江戸に出て書家として名をあげた。
 このような貴重な物であるため、昭和43年に飯田市指定史跡に指定されています。
 又、これ以外にも、明治の三筆(巌谷一六・中林梧竹・日下部鳴鶴)の内、巌谷・中林のお二人が書した碑もあり、小生が子供の頃は、書を愛する多くの方々が、休みとなると拓本を取りに訪れていたのが思い出されます。(文:古川光亮)


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