長野県飯田市は多くの偉人を世に輩出しています。橋南地域にも多くの偉人が存在しています。その中でも、NHK連続テレビ小説「らんまん」のなかで主人公の植物学者牧野富太郎が モデル の槙野万太郎(演:神木隆之介さん)が憧れる植物学者の一人、里中芳生(演:いとうせいこうさん)のモデルとなった「 日本の博物館の父 」と呼ばれる田中芳男がいます。飯田市 丘の上の出身「 田中芳男 」について紹介いたします。(暫定公開:随時追記を行います)
1838年9月27日 (天保9年8月9日)「日本の博物館の父」として知られる田中芳男は信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の橋南地区中央通り2丁目)に田中隆三の三男として生まれました。 中荒町は美濃久々利(現在の岐阜県可児市)の旗本千村氏の飯田役所(千村陣屋)があり、芳男の父、隆三はこの千村氏の御典医でした。隆三は長崎に留学して蘭学を修めており、医学のみならず本草学(漢方学)、舎密学(化学)などにも関心が深く、息子の芳男もその影響を強く受けていると考えられます。隆三は幼少の芳男に、三字経(中国の初学者用の学習書で内容は儒学の基本)や漢文を身に着けさせました。 三男の芳男ですが、兄が病死したこともあり医業と家督を継ぐこととなります。
1856年(安政3年)秋に名古屋の伊藤圭介の門下に入ります。この伊藤圭介は尾張藩御典医で、のちに日本初の理学博士となり、福沢諭吉を会長とする東京学士会院(現在の日本学士院)の初代会員21名の一人となっています。千村五郎(のちに英学者・牧師で英学塾協和社を開く)・柳河春三(のちに開成所で教授)らと共に書生として種痘などの西洋医学を身に着けました。また、博物学や本草学もここで学びました。
1858年(安政4年)には故郷の飯田に帰り、自宅で本草学や博物学の研究や、時には名古屋に出て伊藤圭介のもとで学問をしていたそうです。
1862年(文久2年)、伊藤圭介が幕府の蕃書調所物産方(江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)に招かれました。 ちなみに蕃書調所物産方は後に洋書調所、開成所と改称され現在の東京大学、 東京外国語大学の元となっています。芳男はその助手で下級技術者として採用され、物産学・本草学の研究開発に当たり海外から送られてくる穀物・野菜・花などの試験栽培等を行いました。芳男はのちに、伊藤圭介など師の方々はダイコン、ニンジン、ゴボウなどといった日用産物の増産には関心がなく、自分が物産所でもっぱらこの研究に従事することとなったと言っていたそうです。ちなみにこの時、ドイツの医師であり博物学者で長崎出島の三学者の一人、シーボルトを伊藤圭介の付添として横浜に訪ねています。
1865年(慶応元年)、幕府はパリ万国博覧会に正式参加表明しました。万国博覧会に日本の文化や産業を紹介するため漆器、陶磁器、錦絵、織物、和紙などの出展を計画しました。その出展計画のなかに日本の昆虫標本がありました。
1866年(慶応2年)、この昆虫標本の製作を博物学者の子阿部為任と共に芳男が行いました。相模、伊豆・駿河などの野山を「虫捕り御用」を掲げ、56箱の標本箱を用意しました。幕府役人は芳男の知識、オランダ語、本草学(博物学)の心得などの能力を買い、同年11月、使節団の先発隊としてパリ万国博覧会に向かわせました。
1867年(慶応3年)、昆虫標本が現地の研究者に高く評価され、パリ殖産協会から賞状や銀メダルが贈られました。ちなみにこの昆虫標本は博覧会の閉会後、昆虫学者のロルザに買い取られ、ロルザは後にこの標本を用いて論文を執筆しています。
また、巣鴨の福井藩邸に遣米使節が持ち帰ったリンゴ樹を日本の在来種に接ぎ木をしました。
1867年(慶応3年)、パリでの滞在期間7カ月後に芳男は帰国しました。
1868年(慶応4年・明治元年)4月、江戸城は新政府軍に無血開城し江戸幕府が崩壊するという大混乱の中でしたが、その中でも芳男は研究の手を止めませんでした。
元号が明治となり洋書調所は開成所に解消され、9月に芳男は御用掛として任命されて大阪舎密局の建設に従事しました。大阪の大阪城跡地に「舎密局」開設準備にとりかかります。舎密(けみ)局と呼ばれたこの施設を、科学だけでなく物理学等その他の自然科学全般を研究対象にする組織機関として「博物館」という名称を提案します。さらにこのとき植物園や温室などを附設することを提言しました。
1869年(明治2年) 5月に 予算の関係上、提言全ては実現にはできませんでしたが舎密局は開設されました。また、この年斎藤斧太郎の長女で、蘭学医の三澤良益の養女、「 ゑい 」と結婚しています。
1870年(明治3年)3月、大学南校物産局に転任となり東京に戻りました。ここでは後に博物館の創設に共に従事する町田久成と同僚となっています。そして現在の経済産業省になる物産局を創設しました。物産会すなわち殖産興業を主な目的とした博覧会の開催に度々かかわっていきます。
1872年(明治5年)に文部省が発足し、湯島聖堂(旧幕府昌平坂学問所)が文部省所轄となり文部省博物館となりました。
1872年4月(明治5年3月)、翌年開催のウィーン万国博覧会への公式参加に伴い、全国各地から取り寄せた出品予定品を公開するため、湯島聖堂大成殿で湯島聖堂博覧会が開催されました。
1873年(明治6年)、日本赤十字社の創始者として知られる佐野常民らともに、芳男は一級事務次官としてオーストリア・ウィーンで開催されたウィーン万国博覧会に派遣されました。ウィーン万国博覧会のテーマは「文化と教育」。35ヶ国が参加し、日本政府が初めて公式参加し日本館が建設されました。
1875年(明治8年)芳男は博物館、動物園などをもつ公園の設立に尽力し上野の博物館・動物園の建設のために町田久成らとともに力を注ぎました。こうして上野公園設計に携わり、博物館と動物園の開設を計画しました。同年刊行された田中芳男纂訳『動物訓蒙学初編哺乳類』は分類階級の訳語として、classに「綱」、orderに「目」、familyに「科」、genusに「属」、speciesに「種」の訳を用いました。これは今日の分類学に及んでいます。また、この年フィラデルフィア万国博覧会に事務次官として出張しています。
1877年(明治10年)1月、内務省権大書記官に就任。
1878年(明治11年)、小笠原島にコルクの木、コーヒーの木をの栽培を図ります。
1879年(明治12年)、長崎で食べたビワが非常に美味しかったので芳男は種子を持ち帰り自宅の庭に播いて選抜しました。
1881年(明治14年)、農商務省大書記官、農務局長兼博物局事務取扱に命ぜられました。
1881年(明治14年)、後に日本の植物分類学の父と呼ばれる牧野富太郎と出会います。当時19歳の牧野富太郎は第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を買うため、土佐高知から上京します。その時に憧れだった芳男と小野職愨(おのもとよし)を訪ねます。芳男と牧野富太郎は24歳差がありますが、植物を媒介にした親交が続いたそうです。
1888年(明治21年)、長崎から持ち帰り選抜したビワから大型品種を発見しこれが田中ビワとなりました。
1890年(明治23年)9月29日 、貴族院勅選議員に任じられました。
1890年(明治23年)10月20日 、錦鶏間祗候(名誉職)となりました。
1893年(明治26年)に日本園芸会副会長として、小平義近(造園家)らと日比谷公園設計案を提出したが採用されませんでした。
1902年(明治35年)に大日本農会附属私立東京高等農学校校長(現在の東京農業大学)の初代校長になりました。
1906年(明治39年)4月1日、勲一等瑞宝章を受章しました。
1915年(大正4年)6月、飯田尋常高等小学校(現在の追手町小学校)で講演を行いました。この講演は5年生以上の児童・青年会・婦人会・町内の人々・郡長など約600人を前に行われました。自身の経歴や博覧会創設の苦労話などを語ったといいます。芳男は40年ぶりの帰郷で「浦島太郎の様で知った顔が少ない。」とも語っていたそうです。
1915年(大正4年)12月1日、勲功により男爵を授けられました。
1916年(大正5年)享年満77歳、胃潰瘍のため自宅(東京都本郷金助町、現在の東京都文京区本郷3丁目)で亡くなりました。
田中芳男・田中義廉の顕彰碑
芳男の実家であった千村陣屋の跡地近く、リンゴ並木の端にあたる中央分離帯に田中芳男・田中義廉(よしかど)の顕彰碑があります。この顕彰碑は田中芳男・田中義廉両兄弟の業績を称え、1980年(昭和55年)7月13日に除幕式が行われました。
顕彰碑の向かいには飯田東中学校生が作り、見守るリンゴ並木。後ろにはビワが植樹されています。
リンゴもビワも田中芳男が手掛けた仕事の産物で、飯田市橋南にあるりんご並木通りは芳男の不思議な縁が詰まった道になっています。
田中義廉(よしかど)
弟の田中義廉は天保12年2月11日(1841年4月2日)生まれで、芳男と共に伊藤圭介の門下になります。安政6年(1859年)江戸に出て林洞海に蘭学や本草学を学びます。
慶応3年(1867年)幕府海軍士官、慶応4年(1868年)上野戦争では彰義隊に属し、明治2年(1869年)に新政府の海軍御用掛となり海軍操練所の設立に協力します。兵学大助教になりますが、明治5年(1872年)には文部省に転属し、小学校教科書の編集に着手して「小学読本」を発行します。明治6年(1873年)退官後も、従前の事業に専念し、明治7年(1874年)「小学日本文典」、明治8年(1875年)「万国史略」、明治10年(1877年)「日本史略」「物理新編」など多くの教科書を手掛けました。
位階
1916年(大正5年)6月21日 従二位
勲章等
1878年(明治11年)6月28日 勲五等双光旭日章
1883年(明治16年)11月1日 勲四等旭日小綬章
1885年(明治18年)11月19日 勲三等旭日中綬章
1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章
1890年(明治23年)11月1日 藍綬褒章
1894年(明治27年)7月9日 大婚二十五年祝典之章
1896年(明治29年)3月28日 勲二等旭日重光章
1906年(明治39年)4月1日 勲一等瑞宝章
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章
1915年(大正4年)12月1日 男爵
参考文献
・田中芳男の胸像制作等を願う市民会議,郷土の偉人田中芳男,平成20年6月29日,31p.
・飯田市美術博物館,日本の博物館の父田中芳男展,平成11年9月12日,92 p.
・田中秀夫,田中芳男は何をした人か, 平成20年6月29日,51 p.
・志川節子,辻浩明,祥伝社,博覧男爵,令和3年5月20日,400 p.
・宮島繁,田中芳男・義廉顕彰碑 建立記念誌,昭和55年7月13日,58 p.
・「農業の文明開化」を先導した田中芳男,https://www.jataff.or.jp/senjin/biwa.htm,(参照202-6-4).
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